カウンターオファー(退職を申し出た人に、会社が昇給や異動などの条件を示して引き止めること)を受けるかどうかは、提示された金額の大きさでは決まりません。決め手は次の 3 つです。
- 条件が書面で確かめられるか。 口頭の約束のままでは、残ったあとに実現する保証がありません
- 辞めようとした理由が、その条件で消えるか。 賃金以外の理由で辞めようとしていたなら、昇給では解決しません
- 転職先への回答期限までに、1 と 2 を確かめ終えられるか。 期限を過ぎれば、転職先の内定そのものを失うことがあります
3 つがそろえば残る選択は十分に成り立ちます。どれかが欠けるなら、断る側に寄せて考えてください。以下では、条件が出てくる仕組み、確かめる項目、進め方の順に整理します。
引き止めの条件は、なぜこのタイミングで出てくるのか
会社にとって、人が抜けると補充が要る
引き止めは、会社から見れば合理的な判断です。人が 1 人抜けると、その仕事を誰かが引き継ぐか、新しく人を採る必要があります。厚生労働省「令和7年転職者実態調査」(2026年9月公表)では、事務・販売・サービスなどの仕事で転職者を採用した理由として最も多かったのが「離職者の補充のため」でした。辞めた人の穴は、多くの場合、外からの採用で埋めることになります。
つまり、提示された条件には「あなたを評価している」という面と、「今抜けられると困る」という会社の事情の面の両方が含まれています。どちらの比重が大きいかは外から分かりません。だからこそ、気持ちの問題ではなく、条件の中身で判断する必要があります。
条件は「辞めないなら」の約束として、急いで出される
引き止めの条件は、退職を申し出てから数日のうちに、直属の上司から口頭で示されることがよくあります。この時点では、次のことが決まっていないことがあります。
- 昇給が賃金規程や等級の手続きを通るのか
- 決裁する立場の人が了承しているのか
- いつの給与から反映されるのか
- 異動の約束なら、異動先の部署が受け入れを決めているのか
急いで出された条件ほど、あとで「検討した結果、今期は難しくなった」となる余地が残ります。
辞めたい理由と、出てくる条件はずれやすい
同じ調査で、自己都合で前の会社を辞めた人の理由(3 つまで回答)は、「賃金が低かったから」25.5%、「会社の将来に不安を感じたから」25.2%、「満足のいく仕事内容でなかったから」24.7%の順でした。辞める理由は賃金だけではありません。
ところが引き止めの条件は、会社が最も出しやすい「お金」に寄りがちです。仕事内容や会社の将来への不安で辞めようとしていた人に昇給を示しても、理由そのものは残ります。
受けるかどうかを決める判断材料
次の表で、出された条件を 1 行ずつ確かめてください。右の列に当てはまる行が多いほど、残ったあとに「こんなはずではなかった」となりやすい状態です。
| 確かめること | 残る側に寄る状態 | 断る側に寄る状態 |
|---|---|---|
| 条件の形 | 金額・適用開始月・等級などが書面(辞令、労働条件の通知、合意書など)で出る | 口頭のみ、または「次の評価で考える」 |
| 条件の中身 | 基本給や等級の変更、職務や部署の変更 | 一回きりの一時金だけ、または「検討する」 |
| 約束した人 | 人事や、決裁できる立場の人が関わっている | 直属の上司が一人で言っているだけ |
| 辞めたい理由との関係 | 理由のほとんどが条件で解消する | 理由の半分以上が条件と関係がない |
| 転職先との比べ方 | 年収だけでなく、労働時間・休み・仕事内容も並べて比べた | 年収の額面だけで比べた |
| 期限 | 転職先の回答期限までに書面が出る | 書面が期限に間に合わない |
転職すると、勤続がゼロから数え直しになる
比べるときに見落としやすいのが、勤続年数にもとづく条件です。年次有給休暇は、雇い入れの日から 6 か月間継続して勤務し、全労働日の 8 割以上出勤した人に 10 日与えることになっており、その後は勤続に応じて日数が増えます(労働基準法第39条)。転職すると、次の会社では原則として勤続がゼロから数え直しになります。会社によっては入社時に前倒しで与えているので、転職先の条件を確かめてください。
退職金の最低勤続年数や、賞与の算定期間なども、会社の規程で決まります。現職に残る場合と移る場合で、1 年後・3 年後にどう違うかを並べると、額面の年収だけでは見えない差が分かります。
社内での立場は「申し出た事実」を前提に考える
残ると決めても、退職を申し出たことは上司と人事が知っています。これは消せません。考えておきたいのは次の 2 点です。
- 引き継ぎがどこまで進んでいるか。 後任が決まっていたり、取引先に異動を伝えていたりすると、元の担当に戻れないことがあります
- 残る理由を説明できるか。 「条件のこの部分で、辞めようとした理由が解消した」と言えるなら、上司とのあいだで話が通りやすくなります。説明できないまま残ると、次に不満が出たときに相談しにくくなります
残るか移るかを決める手順
1. 転職先への回答期限を確かめる
最初に、転職先に返事をしなければならない日を確かめます。期限の延長を頼むなら、理由と希望する日付を添えて 1 回だけにします。何度も延ばすと、入社への意思を疑われます。
内定を承諾したあとに辞退することもできます。厚生労働省の「確かめよう労働条件」は、採用内定の段階で労働契約が成立していると考えられることが多いとしたうえで、内定者からの辞退は基本的に問題はないものの、あまりに信義に反するような場合は損害賠償を求められる可能性もあり得るので、誠実といえるかを考えておく必要がある、と説明しています。承諾後に辞退するなら、決めた時点ですぐに、電話と書面の両方で伝えてください。
2. 現職に、条件を書面で出してもらう
労働契約法は、労働者と使用者が合意によって労働条件を変更できること(第8条)と、労働契約の内容をできる限り書面で確認すること(第4条第2項)を定めています。引き止めの条件は労働条件の変更なので、書面で確かめるのは自然な求めです。頼むときは、次のように項目を指定します。
ご提示いただいた条件について、判断のために書面でいただけますでしょうか。 ・基本給の額と、適用が始まる月 ・等級や役職の変更の有無 ・担当業務・部署の変更がある場合は、その内容と時期 ・一時金がある場合は、支給日と支給の条件 〇月〇日までにいただけると助かります。
期日を入れるのは、転職先への回答期限から逆算しているためです。書面が期日までに出ないこと自体が、判断材料になります。
3. 辞めたかった理由を、条件と 1 つずつ突き合わせる
転職を考え始めたときの理由を、紙に書き出します。「給料が低い」「残業が月 40 時間ある」「希望の職種に就けない」「会社の業績が不安」のように、具体的に書きます。そのうえで、提示された条件で消えるもの・残るものに印を付けます。
残る理由が多いなら、条件がどれだけよくても、半年後に同じ理由で転職を考え直すことになりがちです。給料の上がり方を業種や役職の違いで考え直したいときは、給料が上がらない理由を数字で比べた記事も参考になります。
4. 現職と転職先を、同じ項目で並べる
| 項目 | 現職(条件を受けた場合) | 転職先 |
|---|---|---|
| 年収(固定給と賞与を分けて) | ||
| 所定労働時間と、実際の残業の見込み | ||
| 年間の休日と、有給休暇の日数 | ||
| 仕事内容・職種 | ||
| 勤続にもとづく条件(退職金など) | ||
| 通勤・勤務地・転勤の有無 |
空欄が埋まらない項目は、現職なら人事に、転職先なら採用担当に尋ねます。埋まらないまま決めないことが大切です。
5. 決めたら、両方に同じ日に伝える
残ると決めたら、転職先には速やかに辞退を伝え、現職には提出した退職届の取り下げの手続きを確かめます。移ると決めたら、現職には退職日と引き継ぎの案を示します。退職の申し出の時期や就業規則との関係は、辞めると決めたあとの実務をまとめた記事で整理しています。
実行するときの落とし穴
- 口頭の約束のまま、退職の意思を取り下げる。 取り下げた後で条件が変わっても、転職先の内定はもう戻りません。書面を受け取ってから取り下げる順番を守ります。
- 一時金に「返還」の条件が付いている。 「〇年以内に辞めたら返す」といった条件が付く場合、労働基準法第16条(労働契約の不履行について違約金や損害賠償額を予定する契約の禁止)との関係が問題になることがあります。署名する前に、労働基準監督署や弁護士に確かめてください。
- 転職先の回答期限を、連絡なしに過ぎる。 引き止めの話し合いが長引くと起きやすい失敗です。期限の前日までに、状況を一言伝えます。
- 条件が出たことを、評価の証拠とだけ受け取る。 会社の事情でも条件は出ます。評価として受け取るなら、次の評価面談で同じ話が出るかを確かめてから判断します。
- 引き止めが、退職を認めない態度に変わる。 厚生労働省「令和6年度個別労働紛争解決制度の施行状況」では、民事上の個別労働紛争の相談のうち「自己都合退職」に関するものが 41,502 件で、「いじめ・嫌がらせ」に次いで多くなっています。同資料には、退職届を出しても上司の了承が必要だとして話し合いが進まなかった事例で、労働局が民法第627条の考え方を事業主に説明し、話し合いの場を設けるよう助言した例が載っています。話が進まないときは、都道府県労働局や労働基準監督署の中にある総合労働相談コーナー(無料・予約不要)に相談できます。相談先の選び方は職場に相談できる人がいないときの記事にまとめています。
残るか移るかは、どちらを選んでも取り返しのつかない失敗ではありません。避けたいのは、確かめないまま期限に押されて決めることです。転職や退職の判断に関するほかの記事は、キャリア・転職の一覧から探せます。
出典
- 厚生労働省「令和7年転職者実態調査の概況」(2026年9月25日公表)
- 厚生労働省「令和6年度個別労働紛争解決制度の施行状況」(2025年6月25日公表)
- 厚生労働省「確かめよう労働条件」Q&A「採用の内定・内々定について、取消や辞退する場合の注意点」
- 労働契約法(第4条、第8条)、労働基準法(第16条、第39条)、民法(第627条)(e-Gov法令検索)



